「猫田勝敏」この方に受けた多大な影響は、計り知れないものがある。まさに自分の人生第1の転機だったかも知れない。俺がバレーを始めたのは、高校に入ってから。背が高かったので誘われて始めたのがきっかけである。それまで、中学でも運動はしていた。が高校に入ったら「百姓の手伝いをしろ」と今は亡き親父に言われてたのだが、結局、百姓がいやだったのか部活をする事に。バレーを始めたころ、初めて買ったバレー雑誌に、猫田さんが亡くなったことが特集記事として掲載されていた。それまで猫田さんの名前すら知らなかったが、この雑誌の記事を読んでいるうちに衝撃が走った。今までの自分の価値観(といっても15歳だったが)を覆すものだった。「人は感動して変われる」と先日行われた講習会でも聞いたが、やはりそうだなあと、この頃の自分を振り返る。感動が自分を変えた瞬間だった。それまで割りと気が短く、すぐに自棄を起こしていた自分に、我慢ということがいかに大切か、を教えてくれたのだ。この頃部屋に「我慢と忍耐」と書いた紙を貼って、それを見ながら夢をふくらませていたものだ。(青春してました〜笑)絶対にバレーを続ける。そう誓った頃だった。ピンク・レディーのところ(コラム集ピンク・レディーの風の中の金字塔を築き上げた永遠の妖精ミーとケイのところ)でも書いたが「夢は実現させるために見るものだ」という点で共通している。なにせ俺は熱いものが好きなのだ。(笑)猫田さんの影響でセッターのポジションにつく。身長も同じ血液型も同じ背番号も同じ2番。妙なところまでこじつけて、がんばっていた頃があった。この頃の影響が、今現在の自分をつくっている。といっても過言ではないのだ。「自分を捨てて人の為に尽くす」相手を立てろという。今の時代には少しそぐわないかも知れない、しかし、これは人としてとても大事な事だと思うし、逆に今の時代だからこそ、お互いさまということ、相手を思いやれる、ということが必要なのかも知れない。この頃から自分の我を捨てて、前向きになった。常に前向きなステップを踏む努力が必要なのだ。
上の写真は、その頃、隅々まで何度も何度も読み返した技術書である。単に技術だけではなく、心のことについても触れていて、大変勉強になった。その猫田さんが他界したのはこの技術書を書き上げた直後のことだった。
広島にある猫田記念体育館には2度足を運んだことがある。その度に「ありがとうございます。バレー続けます。」と心の中で呟く自分があった。
猫田勝敏
広瀬美代子さんへ