猫田さんへ
広瀬美代子
広瀬選手お疲れさまでした

昭和60年3月3日、第18回日本リーグ女子最終日、この日の試合を最後にあの”世界一の名レシーバー”と言われた広瀬美代子選手が現役を退きました。ちょうど今から4年前のワールドカップ’81では、神業レシーブでたちまち人気者になりました。
 僕がヒロというニックネームを持つ、広瀬さんのファンになったのは、このときではなく、むしろエースから控えに回ってからです。それはなぜかというと、広瀬さんのバレーに対する”執念”を見たからです。皆さんは第17回日本リーグを覚えていますか?
広瀬さんにとっては、キャプテンになって初めてのリーグでした。チームをどう引っ張っていけばいいのか、迷いながらも1人でユニフォームをぬらしコートの中を走り回っていました。ロス五輪のときもそうです。チームになんとか貢献しようと、少ない出番に自分のバレーに対する執念をぶつけていました。その姿をテレビで見ながら、僕は広瀬さんの心の中に消えそうで消えない炎を見ました。
 僕は先日、ユニチカの試合を見にいきました。そこで、僕は気づいたことが二つありました。一つは、広瀬さんの雰囲気が以前といくらか変わっていたことです。以前はファイトあふれる広瀬さんが、今回は正に”ベテラン”のことばが似合うようになっていたからです。それからもう一つは目です。広瀬さんの目は、いつも一つの物を見ていました。それに、キラキラ輝いていました。その目を見て僕は、広瀬さんのバレー生活は充実しきっていたんだなということを知りました。”世界一の名レシーバー”とまで言われるようになったのは、ひたすら自分の目で、あの目ではっきりと白いボールを見つめてトライしていった証拠です。ワールドカップ’81で見せたプレーは、技術ではなく心だったのです。
  ユニチカに入社して8年。人の知らないところで死ぬような努力をし、必死に耐えてやっとつかんだ栄光。ピンチレシーバーで全日本に入り、ピンチレシーバーで全日本を去っていった広瀬さん。広瀬さんは僕たちに、バレーにかかわらず、すべての面で”一つのことをあきらめず、最後までやり抜く”ことの尊さを教えてくれました。広瀬さん、ありがとう。あなたのような執念で、ボールを上げるレシーバーは、もう現れないでしょう。
 最後に、広瀬さんは江上、三屋、森田各選手とは対照的に、静かにそっと散っていきました。でも、それがレシーバーの誇りに生きた、広瀬美代子さんらしいから・・・。ご苦労さま・・・HIRO。

僕の高校時代はホント、バレーに明け暮れていた。
OH!STEPのページにその当時、猫田選手に多大な影響を受けたことを書いているが
この広瀬選手にもやはり影響を受けたであろう。なにせ、レシーブ練習が一番好きだったのも彼女の影響だろうか?そんな彼女が引退するとき、あるバレーボール雑誌に投稿して採用されたことがある。その文章を今回、復元、載せて見た。すごくコッ恥ずかしいが・・・これも高校時代の思い出である。
以上当時、掲載されたままを載せてみました。
振り返ると、当時バレーボールは僕の人格形成に大きく作用していたと思います。
この頃があるから今もこのようなページを作り前向きなSTEPなどといっているのだと思います。
なにはともあれ、これからも俺は俺らしく一度しかない人生を楽しい道で前向きなSTEPを踏んでいこうと思います。